月の裏側−THE OTHER SIDE OF THE MOON−

 「月の裏側が見たいな」
 多分独り言のつもりで呟いていたに違いないその言葉は、俺の耳に届いてしまった。
 「月の裏側?」
 「そう。ほら、地球の自転と月の自転の微妙なバランスの所為で常に僕らはこちら側を向いている月しか見る事が出来ないだろう。……隠されているものを見たい、とは思わないかい?」
 思わず聞き返してしまった俺に対し、わざわざ丁寧にこちらに向き直って答えた蛍は、酷く遠くを見つめているように思えた。
 「本人が隠したくて隠しているものをわざわざ暴いてまで見たい、とは思わないな。どうしても隠さなければならない理由が在るのかもしれないし」
 「理由? 月にそんなものが在るのかな」
 くすりと小さく笑って蛍が窓の外の月を見上げる。
 二月の初めの、凍えた空気の中に独り佇む月を。
 「月にそれが在るかどうかはしらないけれど、書類の整理も終わったし、とりあえずここにこれ以上居残る理由はないな。明日も授業がある。早く帰ろう」
 「まだ五時を少し過ぎただけって言うのに、もうこんなに暗いね。まぁ、明後日から少しずつ日は長くなるけれど」
 帰り支度を疾うに済ませていた蛍は俺の支度が終わるのを待っていたらしい。慌てて机の上に散らばった荷物を鞄に詰め込み、コートを羽織って戸締りをチェックする。
 「待たせたな。行こう」


   「さっき、話の途中だったな。何が『けれど』なんだ?」
 駅までの人気の無い帰り道、寒さを少しでも紛らわす為に俺は口を開いた。
 「ああ、特別な意味は無いよ。ただ春になるって事を言いたかったんだ。僕等が三年生になるって事をね」
 「そうだな。一応受験生だな」
 「一応?」
 少しだけ視線を落として俺を見る。
 「母が、な。多分これ以上俺に自由を与える事は無いだろうから」
 夫に棄てられ、俺を最愛の人と同一視する事でどうにか生き延びているあの人を放ったままでいられるわけも無い。
 今だってどうにか誤魔化しながら高校に通っている。これ以上あの人を不安にさせるわけにもいかないのだ。
 日に日に自分達を棄てたあの男に似てくる自分が。
 「君は何時まであの人に縛り付けられれば気が済むんだい? そんなに自分を苦しめて、一体何が楽しいの?」
 「なっ……」
 「どうして幸せになろうとしないんだ? 何で平気で身代わりになんてなっていられるんだ?」
 「うるさいっ」
 「黙れって言われても黙りなんてしないよ。自分に戻りたいんだろう。そう言えばいいじゃないか」
 「そんな……事、無い」
 「嘘だよ。じゃなかったらこんな泣き方するわけ無いじゃないか」
 言われて初めて気が付いた。いつの間にか、知らず知らずの内に涙が零れてきて止まらなかった。
 「泣いたって構わないんだ。僕には君の心の裏側だって見せて欲しいんだ」
 「心の、裏側?」
 「君が誰にも言えないでいる事だって、聞く勇気があるよ。ねぇ、僕じゃ駄目かな」
 君の心に触れる資格は無いかな、と俺を抱きしめた耳元で蛍が囁いた。
胸に顔を押し付けて、泣き続けてもまだ涙は全然止まらなくて、どうしたらいいのか分からなかった。
 「僕は君に涙を流させるような人間が君を幸せに出来るなんて思わない。けれど、僕は君を泣かせてあげられる人間だと思うんだ。どうかな」
 慰めるように頭を何度も撫でられて、しゃくりあげる背中をぽんっと叩かれて、傍にいてくれた。
 今すぐに蛍の手を取る事も、蛍から離れる事も選べなかった。
 「すぐに答えが欲しいわけじゃない。だけど覚えておいて欲しいんだ。僕は何時でも君の為にいるから。望むものも願う事も全て叶える為だけにいるんだから」
 「何で……」
 「それを僕に聞くのは野暮ってものだと思うけど。どうしてもって言うんなら言わないでもないよ」
 但し一回だけ、と宣言して蛍は俺と真っすぐに向き合った。
 「君が好きだよ」
 言葉だけじゃ足りない想いを伝える為に重ねられた唇は優しくて、更に俺に涙を流させた。



後書きと言う名の言い訳
 パソコンの空き容量が足りないとパソコンは不便なようです。
 私にはちっともパソコンの気持ちは理解できませんが。
 
 月シリーズは微妙に暗いらしいです。
 ……薄幸さんがメインだから?

 20040310
 再アップ20080207