予告状は君の心に −First Contact−



 『誰よりも速く走ることが出来たのは、辿り着く先に何かが在ると思えたから』


 国体記録を持つ美術教師がこの世に存在するなんて、一体どこの誰が思いつくだろう。
 たった100mを誰よりも走る人間が、椅子にだらしなく座ってパステルで手を汚しながら絵を描くなど、誰も想像はしないだろう。
 そして、柔らかな草を描くこの手で、幾多の美術品を盗んだなどと主張しても、誰も信じないだろう。
 たとえそれが贋作だったとしても。



 贋作が許せなくなったのは、一体いつの頃だっただろう。
 動機は今でも鮮明に……何度思い出しても腹が立つほどに覚えているけれど。
 そう、あれは決して有名ではなかった画家、土岐一郎と言う、当時ではまだ駆け出しで世間には認知されていなかった氏の作品を、本人の案内の下、一度だけ見たときのことだった。
 彼の最愛の人の肖像画。何のことは無い、極普通に販売されている油絵の具を使ったはずのその肖像はとても美しくて。描き手の対象への想いが観るものに伝わる、そんな絵だった。 
 一目見ただけで氏の絵に惚れ、涙が出た。小学生のときのことだったと思う。
 それから5年。「綾」という例の肖像画から氏の評価が高まり、世間にも認められ始めた頃のこと。
 ある家で同じ絵を見た。氏が描いた最愛の人の絵を。
 ……始めてあの絵を見たときと同じ感動は得られず、怒りだけが募った。
 心が、それには存在しなかった。氏の溢れるような想いが。
 贋作、という言葉を知ったのはその後のことだったと思う。



 それを、そんなものを世間から排除してしまいたい、と願うことは驕りだと知っている。
 知っていて、尚許せなかった。
 羨望の裏返しの思いなのか、嫉妬なのかも分からない。
 ただ、生き続ける目標に『それ』しかなかったのは事実だった。
 先生、と呼ばれることに何か特別な思いを感じないことも無いではなかったが、教師で一生を終えるつもりも無かった。
 日々が、虚しく思えるときさえあった。



 ただ、彼に出逢うまでは。
 運命でも宿命でも偶然でもなく、自分自身で選び取った道で彼に出逢うまでは。



 月の、とても綺麗な夜だった。毎度お馴染みのパトカーのサイレンに追い立てられ、ひたすらに逃げる俺。
 懐には『聖女の雫』と呼ばれる30カラットのブルーダイヤ。と世間では思われている人口石が一つ。手の掛かるような代物とも思えないようなところがポイントだったのだろう。
 閑静な高級住宅街を騒がせて悪い、とは思うものの何故俺が逃走経路にここを用いるかと言われればそれはただ単純に『隠れやすい』からだ。
 美しい庭のその松や池は措いておくとしても、桜などの木は重宝する。特にこのだだっ広い屋敷。主人が桜好きなのかどうかは知らないが非常に便利なのだ。よって毎回のように使わせてもらっている。
 今日もここを通ろうとして、桜の枝に足をかけたそのとき、『聖女の雫』が懐から零れ落ちた。空中でそれを掴んだ俺はものの見事に落下。慌てずに音を立てずに着地をする。
 ふと息をつき、懐に再び仕舞い込む。辺りを見回して、逃走を再開しようとして、こちらを見つめる視線に気が付いた。
 オレンジに染めた頭の、真っすぐな目が驚き見開かれていた。
 口が開きかけた瞬間、俺は駆け出してその口を塞いだ。ついでに身動きも取れないように後ろから羽交い絞めにする。
 「黙っててくれるかな?」
 耳元で囁き、苦しさの所為か幾分潤んだ目を覗き込む。ゆるく瞬き、了承の意を表したので俺は彼を解放した。
 けほっと軽く咳き込み、上目遣いで俺を見る目は、未だ見開かれていた。つぶさに俺を観察し、期待の籠った目で見つめられる。
 「怪盗、オクト?」
 少し低めの、それでも少年らしい声が熱を伴って俺の鼓膜を震わせる。
 「そう呼んでくれて構わないよ」
 思いのほか、優しい声が出せたことに安堵し、それに気付いて何だか気恥ずかしくなった。
 「本物? マジで?」
 それは俺に向けてではなく、自己確認のようだったのだけれど、口に出さずにはいられなかった。
 「偽者なら、こんな夜中にサイレンに追われはしないだろうね」
 「何? 仕事中? 逃げてきたの?」
 矢継ぎ早に繰り出される質問に対して頷いてやると、彼は更に驚いたようだった。
 「あ、俺、苑。有栖川苑」
 嬉しそうに名乗るその名字に覚えがあり、一瞬どきりとしたが、まぁ、滅多にある姓でもないからきっと親戚なのだろう。
 「苑、だね。覚えておくよ」
 挨拶代わりに軽く頬に口付けて、俺は庭を後にした。
不良少年のような見た目をしていたが中身は至極愛らしかった苑少年に、もう少し構っていたかったのだが、如何せん時間が無い。
サイレンがすぐ近くまで迫ってきていた。
 「俺も! 覚えてるから」
 桜の林に身を潜める少し前、苑のそんな声が聞こえた気がした。



後書きと言う名の言い訳
さて。これはあれです。
 怪盗シリーズの原型とまではいかなくとも些細なきっかけになったものです。
 だって共通項は「怪盗」しかないですから。
 本当に古いものを発掘してしまいましたね。

 20040310
再アップ20080207