ラルゴとアレグロのあいだ rosso


 03
 蹴りたい男




 「大体呼び出しておいて遅れるって言うのが気に入らないわ!」
 「まぁ、あいつも多忙な身の上なんだ」
 「何もこんなところで待たせる必要ないでしょう!?」

 かくかくしかじか、と。
 時計についての経緯を簡潔に述べた私に対し。

 『梓川の店で物を買うお前が悪い』
 「買ったのは私じゃなくて灯だ」
 『梓川を知っていて止めなかったのはお前だろう?』

 仕方が無いから見てやらなくもない、と。
 上出来の返事を貰ったのが一時間前。約束の時間は十分前。
 なぜか大学の正門前で私たちは待ちぼうけを食っていた。

 「来たら蹴り飛ばしてやるわ」
 「……その踵で、か?」
 「当たり前よ」

 きらきらと輝くピンクのピンヒールのサンダルの餌食に高槻がなるとも思えないが。

 「待たせたか」
 「ああ、十分の遅刻だ」
 
 今まで周囲にこいつの気配はまったくなかったのに、瞬き一つで姿を現した男。
 高槻悠理。
 普段は一つに束ねている背中の中頃まで伸びた漆黒の髪。今日も相変わらず紙縒りで無造作に一括りだ。
 しみそばかすその他、にきびの跡一つ無い白磁の肌には汗一つ無い。
 寒くて震えているところも暑くてぐったりしているところも見た記憶はない。
 黒と見紛う程深い青の双眸は鋭く、それを縁取る睫毛は長い。
 すらりと伸びた長身に細身の体躯。
 身長の半分以上が足。
 要するに。

 「……腹が立つほど美形ね」
 「お前が真田灯か」
 「初対面の人に呼び捨てにされる覚えはないわ!」
 「初対面の人間に立腹される覚えもないがな」

 やはりというかなんというか。
 私を挟んでばちばちと散らされる火花。
 両者が両者とも整った顔立ちをしているものだから、過ぎ行く人々の興味を引いてしまっている。
 ……はぁ。

 「ここで立ち話もあれだし、どうせなら食堂にでも行かないか?」
 「そうね」

 高槻から興味を失ったらしい灯はすぐに賛成してくれるものの、高槻は灯をじっと見ている。
 そういえば、今日は。

 「眼鏡はかけていないのか?」
 「別件があってな。お蔭で煩わしいことこの上ない」
 
 私の言葉に灯から目を離すと、心底嫌そうに高槻は辺りを見た。
 頬を染めていた女性が急に何も見えなくなったかのように通り過ぎていく。

 「何をした?」
 「人除けだ」

 高槻の眼鏡は視力の補助をするものではなく己の存在を隠すためのものなのだと以前に聞いたことがある。
 大学ではいつも眼鏡をかけているためこいつに見惚れる人間は存在しない。
 ただ、眼鏡をかけ損ねていたために灯にはこいつの本性が見られた、と。

 「行くぞ」

 傲慢に言い放った高槻は、いつもの高槻のように私には見える。
 ……私にはどれも効かないからなのだそうだ。




 「これが話した時計だ」
 「……そうか」
 「何か分かったか?」

 夏休み中のため人は少ないが、その分あまり冷房も効いていない食堂の空気は生温く。
 遅刻の腹いせに高槻に奢らせたかき氷もどんどん水に変わっていっている。

 「買ったのは今日だと言っていたな」
 「ああ。灯が」
 「梓川は何か言っていなかったか?」

 人除けが功を奏したのか、高槻を美形だと評していた灯だが既に興味の対象は大学の造りに移ってしまっている。
 きょろきょろと辺りを見回す美少女に周囲の男性の目が蕩けている。
 ……まぁ、これはこれで高槻がいる限り近寄ってこなさそうだから放置しておくか。

 「見たことがない、と言っていた気がする」
 「奴が買い求めた品ではない、と言うことか」
 「恐らく。それが何か関係あるのか?」

 高槻は黙り込んだまま懐中時計を眺めている。
 時折灯を捉えては時計へ、そして目を瞑るを繰り返し。

 「預かっても構わないか?」
 「え?」
 「灯」
 「……なによ。呼び捨てにしないでくれる!?」
 「これを動かしたいのなら俺が預かるより他はない。お前はどうしたい?」

 高槻の双眸が青さを増す。
 何かを視ている、目だ。

 「……分かったわ。壊さないでよね」
 「善処はする」
 「どういうことだ?」
 「今言ったところで理解できまい」

 白く長い指を備えた手の中に収まった懐中時計にはこれといって奇妙な点はなく。
 壊れていないのに動かない、という至って不可解な謎をその中に抱え込んでいるとは思いも寄らない。

 「電源はいつでも入っている。何かあれば呼ぶと良い」
 「高槻」
 
 席を立とうとする高槻を引き止めるのは困難な技だ。
 いまだかつて成功したことがない。
 しかし。

 「灯」
 「だから呼び捨てにしないでって言ってるでしょ!」
 「俺も呼び捨てにすれば良いだろう? それよりいつまで京都にいる」
 「一週間はいようと思っているけれど? それが」
 「そうか。またな」

 高槻は自ら足を止め、そして不吉な言葉を残して消え去っていった。
 ……またなということは何かが起こるということじゃないか。

 「なんなのあれは!」
 「高槻悠理、だよ」
 「そういうことを聞きたいんじゃないのよ!」

 ぶちきれた灯を宥め、とりあえず帰路に着いた。



 高槻の予言が奴の思い過ごしで済んだことなど一度もないと気付いたのは、その翌日の夜だった。