女神は微睡む 真珠奪還編3.5




 

 
 空気が揺れる振動を感じ取るのは恐らく常人にはできないことだろうが、呂佳にはそれができた。
 女神の愛し子として神殿に攫われていった弟が紛うことなく弟だった、ということだろうか。
 自室の隣、今は肩の力を抜くためのそれと貸した王佐用の部屋の中の空気が動いた気がして書類から目を上げる。
 睨んだからといって扉の向こうが見えるわけではないけれど、やはり今まで感じなかった気配が生じている。
 寝台の中で眠り続けていた子供が目を覚ましたか或いは現れたとき同様に唐突に姿を消したか、のいずれか。
 知らず知らずのうちに固まっていた肩と首をぐるりと回して凝りを解してから静かに立ち上がる。
 不愉快な何かを感じはしない。かといって声が聞こえなければ音が聞こえるわけでもない。
 あれぐらいの子供が見ず知らずの場所へ放り出されたら泣き喚いても良いだろうに、そういったものは感じられない。
 何か反応が返ってくるかもしれないと思い、壁の一部にしか見えない場所をこつこつと叩く。
 城の主である自分が同意を求めなければ入れない部屋などありはしないのに、だ。
 「入るぞ」
 特殊な操作をすることで初めて開く隠し扉の向こう側、やはり特殊な仕掛けで目立った窓は無いのに採光できるその内側。
 寝台の上で、今までぴくりとも動かずに眠り続けていた子供が上半身を起こして泣いていた。
 どうして泣き声が聞こえなかったのかが不思議なくらい目は赤く、ぼろぼろと涙が伝う頬も赤くなっている。
 「ようやく起きたか、ちび」
 低い声でようやく自分に気付いたものの、涙が止まることは無い。
 大きく口を開けて何かを叫んで、恐らく意味のない泣き声だろうがぎゃあぎゃあと喚いているはずなのにその声は聞こえない。
 ……出ていない、のか。
 「ちび、安心はできないかもしれないが俺はお前を害さない。それは理解しろ」
 痛々しげな子供を抱きかかえて背中を撫で続ければしゃくりあげていた肩が少しずつ落ち着いていく。
 代わりに服に涙が染み込んだが、洗えば済むこと。まず泣き止ませなければ先に進むことができない。
 「お前が何者なのか知らないうちに約するのは後々俺の立場を悪くするかもしれないけどな、良く聞けちび」
 ぽんぽんと軽く背を叩いて上げさせた顔には涙の跡が残るものの新たに零れる気配は無い。
 ぐしゃぐしゃに髪をかき混ぜて膝の上に乗せて視線の高さを合わせる。
 大きな目は不思議な蜜色。不安の色を取り除いたら、もう少し可愛らしい子供になるだろう。
 「俺は王だ。そしてお前は王である俺の城に現れた。故にお前の主は俺だ。お前が俺の下に在る限り俺はお前を守ってやる」
 呂佳の言葉の真意を探ろうとしているのか、それとも言われた言葉を吟味しているのか。
 子供は大きな目を閉じては開き、開きは閉じてを繰り返している。
 ぐるりと大きな目で呂佳を見て、呂佳の膝の上に乗せられている自分を、自分の手を見て視線が止まった。
 指の先から手首まで、慌てて捲った袖の中、肘まで。
 脱ぎ捨てた服の下、二の腕、肩から喉に至るまでびっしりと。
 刻まれている赤黒い蔦の紋様。
 以前に呂佳が見たときよりも短くなっていた。心臓に掛かろうとしていた蔦の先は伸びることなく渦を巻いている。
 それでも異様であることに違いは無い。
 ようやく落ち着いた子供が腕の中で悲鳴をあげた、のだと思う。声無き叫びを。
 薄い爪で掻き毟ろうとする、細い手首を捕らえて華奢な体を抱え込む。
 飛び散る涙に構っている暇は無い。
 薄い爪が子ども自身の薄い皮膚を破ることは容易く、致命傷にまでは至らないだろうが切った場所によっては冗談では済まされなくなる。
 「そんなんで消える類のものじゃない。落ち着け、ちび」
 手の甲に幾筋も赤い線が刻まれて子供の白い指先を汚している。
 手の痛みよりも心の痛みの方が強い。
 子供に呪術を施すその神経が理解できない。
 声を奪うそれが施されている他になにがこの子供を苛んでいるのかは知らないが。
 「恐れるな。言っただろう、俺の下に在る限り俺が守ってやる」
 はっと我に返った子供の両目に涙の膜が張る。
 ごめんなさい、ごめんなさいと。
 唇を読むという訓練を受けていない呂佳でも分かる、謝罪を。
 泣きながら繰り返すこの子供が哀しくて仕方がなかった。