桜闇 序幕 先触れ


『美しく咲き乱れる桜の根元には乙女の死体が埋まっているのですよ』


暦の上では春が来たとはいえども、夜は未だ薄着で出歩ける程に暖かくはない。
 急に背筋に悪寒が走った、と思うか否かのタイミングで空良あきらは盛大にくしゃみをした。
 「ぶへっくしゅ」
 鳥肌が立ちそうなほど冷たい夜気の中をもう彼此かれこれ一時間、当所あてども無く歩き回っているのだ。身体が冷えるのも当然のことと思われた。
 少しでも温まるようにと薄手のシャツの上から二の腕を摩る。自然と背中は丸まり、鼻を啜ってもう一度くしゃみをする。
 「ったく何処行きやがった、あの馬鹿」
 不機嫌そうに呟いて、硝子の欠片を散りばめたかの如くの空を仰ぎ見る。
 お世辞にも『東京都』に属しているとは思えない、この満天の星を眺めることの出来るこの場所。
敷地から一歩踏み出せば、忽ち『都下』と化すのだろうが、特殊な力に『護られ』ているこの土地は東京であって東京ではない。
 (汚れなき夜空の澄む如く)
 自分が今見上げるこの空から名前を取られた者はこの屋敷の要。一族の聖域。
 目を閉じて、辺りの木々に語りかけようと心を研ぎ澄ましたところで、微かながらも誰かが草を踏む音が耳に届いた。
ゆるりと閉じた双眸を開いて辺りを見回す。
 弱々しい星の光を反射し、輪郭を表したそれは艶を消したメタルフレームの眼鏡のレンズ。
 「頼久よりひささん?」
 「空良君、桜樹おうじゅはまだ?」
 闇に溶け込むダークグレイのスーツを身に纏った男が笑みを浮かべて近づいてくる。
 「夜澄やすみなら未だ見つかってないですよ。頼久さんのセンサーには引っかからないですか?」
 「僕如きの感応力じゃ桜樹はおろか君も捉えられはしないよ。それにしてもこの寒いのに桜樹は何処まで足を伸ばしたんだろうね」
 笑みを苦笑に変えて、頼久が目を閉じる。
刹那、辺りの草木が仄かに光を宿し、すぐに元に戻った。
 「どうやら……桜樹は植物に報道規制をかけているらしいね。敷地内にその存在を感じることは出来ても、場所が特定できないようにしてある。……どうしたものかな」
 「どうしたもこうしたも……身体が弱いくせにこの寒空の中ほっつき歩いてる馬鹿を無事に屋敷まで連れて行かなきゃ俺達の首が飛ぶだけですよ。……でも珍しいですね、頼久さんが夜澄を『桜樹』って呼ぶのって」
 本来なら、夜澄の義兄の頼久は、夜澄が毛嫌いしているその呼称でなく名を呼ぶのだが、頼久が今宵は『桜樹』と夜澄を呼ぶ。
 ああ、と一つ頷いた頼久はこの場にいない者達へ皮肉気な笑みを浮かべ、空良に向き直った。
「そうか、空良君は居合わせなかったから知らないんだね。今夜、あの頭の固い長老達が屋敷に大挙してきてたんだよ。さっきまでつき合わされていたからその所為だろうね」
 余程嫌な思いをしたのだろう。補佐役が若過ぎるだの、守役が経験不足だなどと、八つ当たりにすらならないような言葉で何もしない自分たちを棚に上げた発言をし、頼久を責めていたに違いない。
「一体、あいつ等何しに来るんですかね。こんな山奥まで高級車でわざわざ乗り付けて」
「『桜樹様、本日は大変ご機嫌麗しゅうございます』から始まったよ。何時になっても尊称に更に尊称を加えることがおかしいことだと気付かないみたいだね。それに奇妙な日本語。苛々して仕方が無かったよ」
 「……もしかして、頼久さんもその場で夜澄のことを『桜樹』って呼びませんでしたか?」
 「え? ……ああ、確か一、二回そう呼んだ気がするけれど。それが何か……」
 急に痛くなった頭を抱えて空良が項垂れる。
 当然といえば当然だし、あまりにも分かり安すぎる臍の曲げ方だった。
  「それですね。夜澄の奴、多分頼久さんにまで『桜樹』って呼ばれたのが気に入らないんです」
「それで僕にも分からないように報道規制をかけたって言うのかい? ……夜澄君らしいと言うべきか、何と言うべきか」
 苦笑を零してお手上げポーズを取ると、頼久はネクタイを緩め、オールバックにしていた髪の毛も崩し、ついでに眼鏡も外した。
 「夜澄君、何処にいるんだい?」
 落ち着いたトーンのバリトンが夜の闇に溶けて庭全体に拡がっていく。草木が頼久の声に反応してきらきらと小さな光を生むのを、空良は魔法を見る子供のような目で見守る。
 知らず知らずのうちに息を詰め、自分が呼吸をするのを忘れていたことに気がつき、ふと息を吐くと何処から姿を現したのか、白装束に身を纏った佳人が自分を見上げていた。
 「こんなに身体を冷やして、何が楽しいの?」
 夜に開く花を思わせるしっとりとした声には、凡そ感情と言うものが微塵も含まれてはおらず。
 けれど確かにそれが自分に向けられた言葉だと長年の付き合いで理解させられてしまっていた空良は、がっくりと項垂れて自分よりも長く夜気に晒されて、身体の芯まで冷えているであろう従兄弟の肩に手を置いてゆっくりと息を吐き、縋るような思いで一言だけを口にした。
 「頼むから自分の心配をしてくれ」
 「遠敷さん、明日金守の屋敷に行くから。それまでにあの狸どもをどうにかしておいて」
 ふわり、と空良から逃れ頼久にそう言いつけると、暗闇でも確実に捉えられる筈の白装束が闇に溶けて消えた。
 後に残ったのは一枚の桜の花びら。
 「頼久さん、あいつ、本当に金守の屋敷に行くんですか?」
 夜澄が自分の言葉に耳を傾けようともしないことはいつものことなので、無視されたこともさほど気にはならなかった。が、頼久に向けた言葉が気になる。
 「夜澄君が言ったら、そうなるんだろうね。僕に言いつける、ということは木守として行くんだろうから空良君も動向決定だね」
 いつものことさ、と明るく言い放つ頼久に、少しは困ってくれと言いたくなる空良だったが、これ以上頼久に困られると自分はおろか、夜澄の身にまでも危険が迫ることになるので止めておく。
 「何で体調不良のときにわざわざ金守に屋敷に行きたがるかねぇ」
 我儘な当主の気紛れに、何だかんだ言って絶対に付き合う羽目になる空良は短く嘆息し、明日の為に屋敷へと引き返した。
 「一番落ち着くらしいからね。情けないことだけれど」
 何だかんだ言っても、結局当主至上主義のこの折衝役は予定を超人的な手腕で以って変更するのだろう。思わず肩をポン、と叩きたくなる衝動に駆られたが止めた。
 月が生まれ変わってから三日目の今夜、星は一際輝いていた。



 「貴方達は自ら『桜樹』になることを望んだんですか? それとも求められて?」
 深夜の静謐さを破るではなく、寧ろ更に闇を深くするかの如き声が桜の杜に木霊する。
 爪月の異名を取る夜の世界の女王が、そこだけを切り取ったかのように照らし出す。
 「愚かな抵抗をしていると、貴方達は私を嘲笑うんでしょうね。そんなことをしても無駄なのだと」
 赤みを増した桜の花びらに向かって、勝ち誇った笑みを浮かべる。
 「貴方達が己の種の高貴さを謳って繰り返してきた行為の結果が私達なんですよ。私のしていることに比べたら余程貴方達の方が愚かな行いをしてはいませんか?」
 桜の根元へ向かって手向けられるのは痛烈な言葉の花束。浴びせられるのは水ではなく純粋な怒り。
 「これで最後ですから、精々過去の栄華に浸っていて下さい。これから貴方達は汚名を浴びることになるんですから。私も生涯消えない罪を償うことになりますけど」
 踵を返し、闇に溶けていったのは穢れなど知りもしない純白の桜だった。





あとがきという名の言い訳
タイトルにもある様にこれは「先触れ」です。
予告編、みたいなものです。
細かいことは設定を見て頂ければ直ぐにでも分かるのですが
如何せんルビが多過ぎです。……精進します。

言い訳ついでにもう一つ。
この話は本編が全十話で終わる予定です。
勿論これは含みません。
相剋、相生のを一つずつ書いていくつもりです。
気長にお付き合い頂ければ幸いです。

20020923
再アップ20080207