風薫る若葉の君、月に勾わかされるのこと








 その昔、仙薬を盗んだ美女は夫をおいて一人長命を得ようとし、蝦蟇になったとか。
 またその昔、美女が月に帰ったとか。
 美女と月は切っても切れぬ仲ゆえに。
 「月見てさめざめと泣くだけだろ。風情のある女ってことにしておきゃ良かったんだ」
 「まあまあそう言わず。内裏でも誰が落とすか評判の美女だって話だよ」
 「月影と御簾越しの美女なんざ信用できるか」
 やれ物の怪だ、妖だと呼び出されるのは退魔寮に属するゆえだが、残念なことに興味が無い。
 美女、大いに結構。日の光の下でお目にかかれるものならば。
 香や筆遣い、声音から感じ取れたり読み取れる美しさもあるだろうが、それよりも。
 「あー、若葉の君は良いよな。あの空気が本当に良い」
 「榛名殿、まだ日が高いってことゆめゆめお忘れなきよう」
 「はいはい……そうだよ、まだ月が昇ってないのに何の用があるってんだ」
 「明るいうちに手を打っておけばたおやかなお人は安心するのさ」
 からからと笑う同僚に特大のため息で返し、瞼の裏に清涼な気の流れを思い描く。
 想像していた姿よりも随分と稚く、けれども確かな力を持っていた淡い黄金色の若君。
 「……おい!」
 「! お、っと。悪かったな」
 「いえ。避け損ねたのは俺ですから」
 「そうそう。目を瞑って歩いていたこの馬鹿が悪いんだから。本当に申し訳ない。怪我は?」
 「お気遣いなく。それでは、榛名殿」
 肩を軽くぶつけただけ、だった。なのに当たった感触は微塵も無かった。
 人好きのしそうな好青年。
 が、全身白の水干姿の好青年などいるものか。白拍子でもあるまいに。
 ……どこかで、見た記憶があるような。
 「……秋丸」
 「なに?」
 「あの男、逃がすんじゃなかった」
 よよと泣き崩れていた女主人や侍女は全て相方に任せ、汚泥のように残っていた術の残滓を拾い上げれば。
 先程の男が発していたものと全く同じ。
 そういえば名乗りもしなかったのに名を呼んだ。
 「あいつがこの騒ぎの犯人だ」
 



 空が茜色に染まり、淡く月が昇り始める頃客人は来た。
 空の色につられてか禍々しく赤く染まった月に息苦しさを覚える。
 「おー、久しいな、阿部」
 不気味さや禍々しさを払うのにちょうど良いというか適任の客人は常より不機嫌そうな顔を更に歪めていた。
 「……この間の、術を破ってくれやがった奴に嫌がらせをされてた」
 「返り討ちに遭ったのか?」
 「それより更に性質が悪い。家に結界を張られて一歩も出られなかったんだよ!」
 「まあそう怒るなって。で、今日ここに来たってことはようやく術が解けたってことだよな」
 「ああ」
 「若はまだ道場だけど、ま、上がって待っててくれ」
 公達などという言葉では釣りが出るほど高貴な身の上の若君は乳兄弟。
 『口の端に上』らせるのもおこがましいらしい出自をお持ちなので自分のような者を傍に置いている。
 と世間では勝手に話題にされている。
 今上の甥が父上。そのお隠れになられた北の方と親しくしていたのが自分の母。
 一年先に自分を身篭り、生まれてから程なくして北の方の御懐妊。
 「……おい」
 「? どうか……」
 慈しまれて、愛されて育った若君だけれども。
 正の感情よりも負の感情に敏感で。
 だから自分が守るのだと、いつでも笑顔でいられるように尽くすのだと、そう思って。
 「場が乱された痕跡が無いってことは、自分の意思で出て行ったってことだが?」
 「んなことがあってたまるか」
 肌身離さず、に等しい弓をこのように打ち棄てていくような子ではない。
 「供の者も連れずに出歩けるほど、闇の怖さを知らないわけじゃないからな」
 一枚符を取り出すと何事か呟いて宙へ投げる。
 闇に目立つ白い鳥が一羽。
 「鈴の音は?」
 「聞こえなかった」
 「なら御身は無事だろうさ。今のところ、な」
 「あれが道案内をしてくれるってことか?」
 「若君の気を追う。ついてこい」
 傲岸不遜な態度について一々口を出している場合ではない。
 一振り刀を佩いて狩衣の後に従った。




 「美女、ではないけれどその血に連なるお方で良いのかな?」
 月が満ちれば満ちるほど威力を増すように都中に潜ませた術で釣ろうと思った存在とは異なるけれど。
 その身の内側に、確かに息衝く力。
 「初めまして、尊き御方。お名前をお聞きしても?」
 外国の血が流れている、などという噂はまことしやかな嘘。
 尊き血脈の御方が白狐の奥方を娶ったなどというのはあまりにも体裁が悪いということでその噂を否定しないだけ。
 「だ、れ?」
 「ああ、俺は」
 「「栄口! てめぇ!」」
 名乗ろうとする前に名乗られてしまった。
 耳慣れた声、というか知人の声、と言うべきか。
 「お久しぶりです榛名殿と秋丸殿。良い夜ですね。あと阿部、昼間振り?」
 未だ焦点の定まらない華奢な身体を抱き上げて、ひょいと塀の上に飛び乗る。
 ばちばちと弾けるのは睨みつけている当人がかけた術なのか、皮膚が弾けて点々と白い布地を汚していく。
 「多勢に無勢じゃ、ちょっと不利かな」
 一人今にも切り刻んでくれようって目で睨みつけてきているのは、恐らく腕の中の貴人の従者。
 退魔寮二人と符術士一人、そしてかなり腕が立つと見える相手。刀付き。
 「今すぐその方をお放ししろ。さもないと」
 「うん、怖いお兄さんに切られる趣味は持ち合わせてないからね。どうぞ」
 はい、と宙に放り出せばそちらに人が集中する。
 「若君!」
 「栄口お前!」
 放たれた術と符を袖で払って宙を蹴る。
 「それじゃ、また」
 彼の方とあの坊ちゃんはまだ繋がっているようだし。
 あの坊ちゃん自身にも大いに惹かれるものがある。
 ……楽しめそうだな。




 
 




 
 期間限定お持ち帰りフリー小説です。
 ……キリの良い数字ごとに続きが上がると思っていてください。