風薫る若葉の君、人喰らう鬼に狙われるのこと　その壱





　「そういえば、蓮華草が満開だって話を耳にしたぜ」
　「れん、げ」
　「白爪草も満開で、こう、遠くから見ると二つが混ざった色でそりゃ綺麗だって話だ」
　「白と、紫が、一緒？」
　「ああ。浜田、弁当詰めて水筒持ってあと敷布も準備してくれるか？」
　「達筆な書置きでも残すってか？」
　「良いじゃねえか。こんだけの花見日はそうない。行くだろう、若君」
　「は、い！　はま、ちゃん、も」
　「……あーもー、はいはい！　半刻で準備を終えるからそれまで若はちゃんと勉強しておくこと。良いな？」
　「う、ん！」
　書の指導、というには自分の立場からすればおこがましい身分の相手だが、勝手知ったるなんとやら。
　刀を振るうよりも書やら歌やらに才がある、と若くして評価され、今上の玉として名高い若君の教師の命を賜った。
　最初は面倒臭い、鬱陶しい、としか思わなかったが、若君の人となりを知った後はここに通うのが楽しく。
　内裏の明るい方の噂話を持ち込む、というか若君の親しい友人として門を潜るにまで至った。
　「それはそうと若君。勾わかされたってのは本当か？」
　「そ、れは」
　「阿部の術よりも相手のが上手で、もう少し遅れたらどうなっていたか分からない。違わないな？」
　漢籍を広げたまま、膝に肘を乗せ下から見上げる姿勢になれば、淡い双眸が困ったように揺れる。
　そもそもあの符術士をそんなに信用して良いものか。
　若君ほどの重要人物を守るのに陰陽寮の人材を派遣しないなどという方がおかしい。
　「でも、阿部君は、助けに来て、くれ、ました」
　「ばーか。そこで助けに行ってなかったら俺がぶった斬ってやってるだろ。……そこ字が違う」
　くしゃりと日の光を受けて輝く髪を撫でながら、思考は遠くへ。
　さて、どうやってこの大切な人間を守ろうか。




　「そういえば、春日野に鬼が出るって噂は耳にした？」
　「は？　なんだそりゃ」
　「ちょっと前に耳にしたんだけどね。今蓮華草と白爪草が見頃なんだって」
　「……それと鬼とどう関係があるってんだ。つーか今俺は猛烈に忙しい。なんだって花井はこの忙しいときにいないんだよあの坊主！」
　「うん、花井殿も関係あってね。彼は今その鬼の征伐に向かわされてる。春日野に」
　縁側でのんびりと寝転がりつつ伸びをする秋丸が憎い。
　自分はは残り一日で儀式用の札を百枚作らなければならないというのに、手伝いやしない。
　というか、鬼。
　滅多に耳にしない言葉になって久しい、その存在。
　「春日野に花見をしにきた高貴な方々が狙われてるって話。知ってる？　榛名がご執心の若君もああいう場所を好んでるってこと」
　「おい」
　「花井殿だけで守りきれると良いねえ」
　「……馬鹿丸、札」
　「明日からの宿直、代わって貰おうかな」
　「仕方ねえ。出てくる！」
　鬼を斬るのは還俗した坊主の仕事ではなく自分の仕事である。
　さしあたってのところ、徐跋士であることを選んだ、自分の。
　「……まーったく、恋っていうのは人を狂わせるねえ」
　「何言ってんだ眼鏡。あの若君はすげぇんだぜ？」
　徐跋刀を鞘から取り出して、曇りが無いことを確かめる。
　闇を切り裂く一筋の光、唯一にして絶対の血脈、とされるその血を受け継ぐものしか扱えない業物。
　「斎宮よりもっと清い」
　あの光はこの刀が生むそれよりも強く柔らかく、そして。
　「若葉の君が俺と組んだら、闇なんざ恐るるに足りないぜ」
　あの光は自分が欲するだけではない、というところが非常に問題なのだが。




　「あれー？　三橋殿の若君？」
　「え？」
　「風薫る若葉の君、でしょ？　俺のこと覚えてない？」
　「……水谷殿、その女性のどこをどう見てあの御方などと」
　「え、だって俺ちゃんと本人見たことあるもん。てか花井って目悪い？」
　根菖蒲の襲ねに市女笠……旅装束でも無いのに笠はおかしい、とは思ったが。
　近くに乳兄弟みたいな男もいるし、貴族っぽいというか、見かけた記憶がある男が寄り添っているし。
　どこぞの姫君がお忍びで来ているのかと思っていたのに。
　「あ、泉だ。じゃなくて泉殿？　ねえ、若葉の君でしょ。姫君じゃなくて」
　「……お前なんでこんなとこに」
　「俺はお仕事だもん。あ、花井の付き添いなんだけどねえ」
　へらへらとあまり緊張感の無い笑みを浮かべて、姫君に近寄っていた水谷が急にこちらを振り返る。
　刀を佩いている男が緊張を解いたのが目に見えて分かった。
　軽く頭を下げれば、会釈を返してくれた。
　「花井って……ああ」
　「……泉殿。ということは、やはり」
　良く目を凝らせば、清冽な気の発生源が女性というか。
　「若君、なぜそのような」
　「あ、の」
　類稀な淡い色の髪と目が見えた。
　風薫る若葉の君。
　宮中の珠玉とも言われる、儀式に欠かせない清浄なその御方、だ。
　尊い血統に連なりながらも、体外的には外国の血が混じっているということで宮の外に居を構え。
　儀式の際には今上や斎宮と同じように清きものとして扱われる、若君。
　「笠を被らせずに外にお連れするわけにはいかないからな」
　「泉、こっちの人たちは？」
　「楽の大夫なんてえらそうな通り名の水谷。それと」
　「陰陽寮の花井、です」
　「別に敬語はいらねえって。俺は泉でこっちが若君の乳兄弟の浜田」
　「どうも」
　若君の乳兄弟の浜田某も淡い色彩の髪をしている。
　普通、をどう定義するかは人によって異なるのだろうが、空気が通常のそれとはやはり違う、と思う。
　「で？」
　「……は？」
　「水谷が仕事で花井の付き合いってことは、花見でも無いだろ。ここには何があるんだ？」
　鋭い視線が俺を捉える。水谷はへらりへらりと若君に話しかけ、こちらを助けてくれそうにない。
　ふぅ、と息を吐き出して言の葉を紡ごうとしたとき。

　「美味そう！」

　紫の竜巻が、起きた。