風薫る若葉の君、人喰らう鬼に狙われるのこと その弐 春の花たちは生命力に満ち溢れ、その生気はとても良い糧になる。 人外のものの、だ。 故にこの季節は新緑やら若葉やら満開の花やらが溢れる場所を転々としていた。 が、今年は活動場所を野原にしてしまったせいで良くない噂が流れていることは、なんとなく。 物凄くなんとなく、勘で、察していた。 小煩い官吏やら、陰陽寮から役人でも派遣されてきたら、大人しく山に引きこもろうかとも思っていたのだが。 清冽な。かといって己を灼く、あの忌まわしい光ではなく。 『美味そう』というのが最も適している、そんな空気を纏った者を、見つけてしまった。 これを食べないわけにはいかない。というか食べたら長生きしそうな気がする。 人よりは長生きするが、それでもまだ自分は小童の部類。 気に入らない長老やらが引退した後も現役であり続けるためには、ああいう光を喰らっておきたい。 ので。 「美味そう!」 飛びついて、抱えあげたのは、恐らくどこかの貴族の娘、だったはずだ。 遠目から見ていた分には。 けれど。 「あれ? お前男?」 「ひ、あ」 「田島ぁっ!」 「よ、花井」 「よ、じゃねぇ! また今年もお前なのか!」 「んー、そういや毎年会うな」 「そういやじゃねぇ!」 花びらを撒き散らして隠れ蓑にしようと思ったのだが、知り合いがいては些か分が悪い。 相手は還俗した坊主で陰陽師なんていう訳が分からない術を使う花井。 でもってあんまり怖くはないけど知り合いの水谷。 あと知らない顔が二つ。 とても鋭い目なのと、刀に手がかかっているということはどうやら抱え上げている人間の供だ。 「あ、の」 「あー、一口だけ食って良い?」 「う、ぇ」 「痛くしないからさぁ、ちょこっとだけ食って良い?」 軽く地面を蹴りつけ、飛び上がった木の上。 にっこりと笑いかければ、珍しいというかどこかで目にした色彩がふんわり揺れる。 「真葛の姉ちゃんの子かぁ。なあ、俺がなんだか分かる?」 「お、に」 「そ! 俺、招雷の鬼。疾風童子なんて呼ばれてる。お前は?」 根城としている地名を取って田島とも呼ばれているのだが。 「お、れは」 「若君!」 「あっぶねぇなあ。美味そうなのにぶつかったらどうすんだよ」 ひゅん、と頬を僅かに逸れていったのは小刀。 此方を睨みつけていた小柄な方の獲物らしい。 ぎゅうと庇うように抱き寄せれば、余計に眦がきつく上がる。 「今離したら落っこちるぜー!」 「! 貴様!」 とにかく一口。できれば二口。や、全部。 喰らい尽くしてしまいたいほど、腕の中の生き物は美味そうだ。 「鬼!」 「榛名殿!?」 「花井、てめぇ札作りくらい陰陽寮がやれってんだよ。お蔭でこっちは明日から四日連続宿直だぞ!」 「……や、話が読めないんですが」 「とにかく鬼退治は俺がやる! ……水谷と泉か? お前らもいらねえよ。下がってろ」 「!」 「泉殿、落ち着いて落ち着いて」 下が騒がしいうちに、逃げてしまった方が得策といえば得策。 だけれども、今飛び込んできた人間もまた面白い気配がする。 「なあ、誰が俺を退治するって?」 「俺だよ。鬼」 「人質にはしたくねえんだけどさぁ、こいつに傷付けないでできんのか?」 一瞬だけ手を離せば、慌てて自分に縋ってくる弱い存在。 美味そうと相手として面白そうは自分の中では些か違う問題であって。 榛名、とかいうあいつは面白いの部類に入る。 「まあ、俺も若君の前で刃傷沙汰は見せたくないから、無事に帰してくれるか?」 「! お前いつの間に登ってきてんの? おっもしれぇなあ!」 「その面白いに免じて。若君離してくれって」 「んー、じゃ、一口だけな」 「は?」 この疾風童子に気付かれない間にあと五尺の距離に迫ってこれたこいつも面白い。 面白いに敬意を表して。 「んー! 甘い! 美味い!! ごっそさん!」 甘露を、一口飲み干すだけで、今日はおしまいだ。 「若君!」 「廉!」 「てっめぇ!」 「まったなー、真葛姉ちゃんの子!」 ぽい、と空中に放り投げれば、榛名とかいうのがちゃんと真葛の子を抱きとめていた。 さすが、伝説の白狐の血を引くだけあって、格別の味だ。 別に鬼だからって人肉を喰らうわけじゃあない。 その身から流れ出すものが糧となる。 涙であるとか今みたいに口内を弄って舐め採る唾液だとかの体液が、立派な糧になる。 まあ、最も好まれているのは交渉を持ったときに生ずる歓喜の蜜だけども。 「美味かったなー。また今度喰いに行こっと」 疾風童子の名は疾風を巻き起こすから、だけに由来しているものではない。 嵐のように問題ごとを巻き起こすから、でもある。 「おい、廉、あいつに何された」 「……うちの若君の名前を軽々しく呼ばないでもらえますかね」 「あ? なんだお前」 「若君の乳兄弟の浜田ですけど」 「ふん。俺は退魔寮の榛名だ。殿上人に対する礼儀っての、知っといた方が良いんじゃねえか?」 「! 榛名殿!」 「てめぇもだ、花井。お前あの鬼野放しにしてやがったな?」 「それは」 「水谷もだ。お前、何の題目背負ってるんだか忘れてるんじゃねえだろうな」 「いやー、まさかそんな」 「榛名殿」 「なんだよ」 「若君は鬼に『喰われて』います。早急に穢れを払わなければなりません」 「……喰われた?」 「若君、鬼に口の中嘗め回されただろ」 「! う、ん」 「ね、榛名殿。どんなに若君が鈍感でもとっとと清めたいんですよ。分かります?」 「ああ、まあ」 「だからその手を離して下さい。浜田」 「はいよ、っと。若君、笠被って」 「あ、の」 「悪かったな、俺が連れ出さなけりゃ怖い目に会わなくて済んだんだ」 「泉、君」 「一切を此方で手配をしますので陰陽寮並びに退魔寮の方々はお気遣いなく」 「泉」 「本来若君は中央に関わるべきじゃない。貴方が知らないはずがないでしょう、榛名殿、いや春の宮様」 「え? 何言ってんの泉。春の宮って」 「自ら退魔士であることを選んだ貴方が若君に関わることも許されてはいない」 「……お前、どこまで知ってる?」 「俺が誰に重用されてるんだか考えれば分かることだと思いますけど。浜田、若君、帰るぞ。水谷、花井殿、またな」 かくして三橋殿には阿部、そしてなぜか栄口手製の結界が幾重にも張り巡らされ。 「……結界の対象が俺ってどういうことだよ!?」 「本来なら疾風童子限定だろうにねえ」 「はあ、まあ」 「大体お前が田島を野放しにしておくからああいうことになるんだろうが!」 「疾風童子は別にこの一件とは関係ないと思うけどね」 「っだよこの馬鹿丸」 「馬鹿は誰だよ。泉殿を敵に回すだなんて若君と遠ざかるのは当たり前だろ?」 「田島は、特に他の鬼とは違って積極的に人に危害を加える鬼じゃないんで放置というか」 「半ば友人になってたわけだよね」 「ええ。たまに献血してさえいれば大人しかったんで」 「水谷殿も?」 「はい。まあ、あいつは色々な伝を使って人の体液から田島を離そうとしてたんですけどね」 「ああ、じゃあやっぱり疾風童子じゃなくて榛名本人の問題でしょ」 「春の名、榛名って安直過ぎたか?」 「……まあ」 尊き方の血統に連なるものは三橋殿、今上の他には誰一人として邸内に入ることができなくなったのであった。