風薫る若葉の君、東宮と会するのこと その壱






 「……姫君?」
 「お前の目は腐ってるのか。姫君がぶらぶらと出歩くはずがないだろうが」
 「ああ、そう言われればそうなんだけど」
 「水谷殿はご存じないんだろう? かの君こそ有名な『風薫る若葉の君』だよ」
 「? 良くここから区別できますねえ。珍しくない?」
 「まあ確かに珍しくはあるな。何らかの儀式でも執り行われるんだろうけど」
 「にしても、なんで白拍子の服なんか着せられてるのかな」
 「さぁ? かの君は穢れなき御方として名高いけど、その実って噂が多い方だからな」
 「その実、って?」
 「「昼間から口に上らせるなんてとんでもない」」
 「ああ、そういう噂。ふーん」
 「そういえば水谷殿は呼び出しを受けていたのでは?」
 「行き先は若葉の君と同じようだけれど?」
 「あ、忘れてた。では、失礼します」
 数々の浮名を流す自分がよもや性別を見誤るとは。
 目を悪くしたかな、と思いつつ水谷は歩調を速めた。
 今上直々ではないけれど、それに準じる呼び出しに遅刻したとあっては家名に傷が付く。
 別に自分のものであればどうでも良いけれど、そうもいかないのは未だ独り身を満喫しているため。
 ろくに顔も見えない女性を家格で適当に見繕うことが近い将来強制されているのだから、今は遊びたい。
 のでわがままは言わない。
 (どうせなら可愛い子が良いなあ)
 陽の光の下で見てもがっかりしない姫君が良い。
 子孫を残すためだけの相手ではなくて、きちんと愛しい相手として接したい。
 (ま、無理だろうけど)
 仮面夫婦万歳、のこのご時勢。貴族になど生まれるのではなかったと生まれを悔いても仕方がない。
 町娘やそこいらの村娘のところに通ったらその家族に変な期待をされるし。
 でもそういうところに限って顔だけは好みな娘がいたりするのだ。残念。
 「わーかぎみ」
 後一歩まで迫ったところでよくよく確認すれば、確かに。
 ある事情により知り合いとなった若葉の君その人だった。
 いるだけで立ち上る清浄な空気が、目には見えなくとも感じられる。
 「あ、水谷、殿」
 「お久しぶり。穢れは祓い終わったの?」
 「はい。い、ずみ、くん、が」
 「泉殿が?」
 「栄口殿、と阿部君に、頼んで」
 「あー、そっか。災難だったね」
 「俺、は、なにも」
 ふるふると頭を振る若葉の君は、一見したところどこをどう見たってたおやかな少女。
 白粉を必要としない肌は下手な女性よりよほど肌理が細かい。
 目元と唇にさされた紅の筋が清らかさの中にぞりくと肌を粟立たせるほどの色香を生んでいる。
 (よく食われないよなあ)
 それこそ欲望渦巻くこの宮中において、隔離というか少し離れた場所で庇護されていると雖も。
 この清浄さは異常だ。
 だって柔らかい肌の温かい女性にしか興味のない自分だって触れたいと一瞬だけ思ったし。
 近くにいた従者の彼が守っているのだろうか。それとも親しそうな泉?
 阿部の可能性はまずないだろう。
 栄口とかいう在野の陰陽師のことはあまりよく知らないけれども、この若君に興味を持っているとは聞いた。
 あと、あの上司というかなんと言うか、あれな人。
 「あれ、そういえばその泉殿は?」
 「あ、俺、あんまり、こういうの、見られたく、なくて」
 うわ残念、と同情する。
 同時に友情が欲情に変わらないのはこのせいか、と納得もする。
 とすれば。
 この若君を欲して止まないというのをつい最近知って、栄口の結界で火傷まで負ったあの御方は。
 間違いなく、この若君を手に入れるために榛名の名を捨てたのだ。
 一介の徐跋士では到底手に入れることは適わない、至上の玉を。
 水谷の家名や泉の家名程度では友人になれたことさえ奇跡の、華を。
 (手折っちゃうのかな、この若君を)
 そうだとしたらすごい趣味だ。そりゃ、そそるけど。
 「ええと、若君。今回のこの儀式は誰の命によって執り行われるんだっけ?」
 「春の宮様、って、文が」
 「それ、泉殿はご存知?」
 「? いい、え?」
 ええ俺あの人の手からこの若君守りきれるのかな、と非常に不安になる水谷を不思議そうに見上げ。
 若君はふと足を止めた。
 「水谷、どの」
 「はい?」
 うーわーどうしてこういうときに限って俺の味方っていないんだろうと。
 浮名を流しすぎて稀に嫌がらせを受けている水谷が宮中での味方作りに失敗したことを嘆いているのを尻目に。
 ゆったりと烏帽子を揺らして、若君は問いかけた。
 「春の宮様、って、どなた、なんで、しょう」
 水谷が廊下に膝をついて盛大にため息を漏らしたことを責める者もいなければその肩にそっと手を置く者もいないのだった。






 「宮、そろそろ若葉の君と楽を供する方がお出でになる頃かと……はーるーなー」
 「あー、分かった分かった。つーかこれすっげぇ鬱陶しいのな、礼服」
 「それを選んだのはお前だろ」
 「へいへい。で、廉は?」
 「だからもうすぐ来るって。ああ、水谷君も可哀想に」
 水谷がため息を零すのとほぼ時を同じくして盛大なため息を零した秋丸は、目の前の榛名。
 否、東宮がこれから為そうとしていることの一部始終を把握している東宮以外のただ一人の人間だった。
 左大臣家の次男坊。埋もれて終わるはずだった人生が、この宮と出会ってしまったことで。
 この宮に何が気に入られたのか分からないまま意気投合して過ごしてしまったことで、大いに変わってしまった。
 だって、今上の甥の御曹司をこの宮が、東宮が気に入ってしまうなんて。
 その存在を欲してしまうなんて。
 でもってその手引きをしなくちゃいけないだなんて。
 生贄に水谷を選んだのは他でもないこのろくでもない東宮だったけれど、それを止めることができなかった。
 (面白いかなあ、なんて思ったら負けだよねえ)
 唯一にして至高の血統に連なる者でありながら妖を祓い闇を斬る者と。
 その血統に外国、と噂されている真実は妖狐の血を併せ持つのに清浄なことこの上ない至上の存在が。
 共に在ることを、想像したら。
 「秋丸殿、若葉の君と水谷殿がお出でになられました」
 「ああ、通しておいて。すぐ行くから」
 血は紡げないけれど、絆が生まれたら、きっと。
 面白いだろうなあ、なんて。無責任に思ってしまった、つけが回ってきたのだ。間違いなく。
 「やーっと会える」
 「そりゃ良かったね」
 黙っていれば次代の王に相応しい宮の友人であること、腹心であること。
 そのどちらをも強いられたのではなく、自らが選んだから。
 「人払いの合図を出すまで、指一本触れるんじゃないよ?」
 「わーってる」
 この友人の理性の無さを、秋丸は身をもって知らされる羽目になる。