風薫る若葉の君、東宮と会するのこと その弐 どうぞこちらでお待ち下さいませ、と案内の侍女に通された水谷はさてどうしたものかと頭を悩ませ続けていた。 このままこの若君があの東宮に食われてしまうのはなんというか色々な人々に申し訳なさ過ぎる。 「水谷、どの、顔色が」 「あーちょーっと緊張してましてねえ」 貴方は警戒して下さい、などとお願いできる雰囲気でもない。 かといってこのまま何も策を講じなければ事態が最悪の方向に転がり落ちるのは目に見えている。 それだけはなんとしても避けなければ。 自分が一番こういった場において使い易い駒だと思われたままなのも、若干癪に触らないでもないし。 「あのー」 障子の外で控えているだろう影に向かって声をかければ、さらりと衣擦れの音。 「すいません、若葉の君。緊張でちょっと眩暈がするんで風に当たってきますね」 自分の方が倒れそうな顔色の若君を独り残すのは大変に気が引けるけれども、仕方がない。 水谷自身の味方ではなくても、若君の味方になってくれそうな人物に思い当たる節がある。 一刻も早くその人に話を通さなければならない。 ので非常事態時の非常手段だ。 「ちょっと席を外すけど、戻ってくるからよろしく伝えてくれます?」 眩暈を起こしている人間とは思えないほど、また常ではありえないほどの無作法で。 水谷は、廊下を猛然と駆け始めた。 目当ての人物が詰めているだろう場所へ。 「!」 御簾越しではあるものの、純白の装束を纏った華奢な若君の姿を目にした東宮がごくりと。 唾を飲み込んだ音が耳に届いて秋丸はげんなりとした。 にやりと持ち上げられた唇の端に浮かぶ愉悦。獰猛な光を宿した力強い双眸。 向こう側の人物が深窓の姫君であったなら、今のこの東宮の姿を見ても納得できただろうが。 なんせ相手はあの若君だ。類稀なる美貌ではなく清らかさを持った少年だ。 長い付き合いだが東宮には稚児趣味は欠片もなかったのでその対象は若君だけに絞られてはいるものの。 よりにもよって一番厄介な少年に目を付けてくれた。 それにしても通した部屋の中に人の姿は一人しか見当たらない。 まさか若君を置き去りにして逃げるような男ではないと思うのだが、これは非常にまずい事態だ。 「宮、ここに座って俺が合図するまで一歩も動くなよ? 分かってるな?」 「……ああ」 視線は一点に釘付け。なんとも信頼の置けない返事に知らずため息が零れ落ちる。 ここでため息を零し続けていてもどうしようもない。 意を決して御簾から出ればゆらりと烏帽子が揺れて淡い色の双眸がこちらを向く。 「ちゃんとお会いするのは初めてですね、若君。俺は左大臣家の次男坊です。秋丸、とお呼び下さい」 「秋丸、さま」 「様じゃなくて良いんですよ。貴方の方が尊い方でしょう」 ゆるりと頭を下げれば、却って深々と頭を下げられる。 「お、れは、本当、は、こんなところ、に、来ちゃ、いけないんです。だか、ら」 「じゃあ秋丸殿、でお願いします。というか俺の主のわがままで来てもらったんですからそう恐縮しないで」 頭を上げて下さらないととても困ります、と告げれば慌てて頭を上げられる。 困ったと語る目に笑みを零せば、不思議そうに首を傾げる若君は、成程大層可愛らしい生き物だと秋丸は納得した。 これなら東宮が手に入れたがる気持ちも分からないでもない。 「秋丸、どのは、春の、宮様に、お仕えされてる、んですか?」 「長い付き合いなんで、気が付いたらですけどね」 「俺、お会いしたこと、ないのに、呼ばれて。水谷、どのも、なのに」 「ああ、そういえば。水谷殿は?」 「気分が、悪いって。……大丈夫、かな」 自分が生贄に選ばれたということに気付いて今更逃げ出したのだろうか。 逃げ出せるような性格をしていただろうか。逃げるなら文が届いた段階で断りの文を返すだろう。たとえ相手が誰であっても。 「後で遣いの者に探させておくんでお気になさらず。それより若君には儀式を行って欲しいんですよ」 「分かり、ました。で、も、俺、舞はあんまり、得意、じゃ、なくて」 「その点はご心配なく。実は呼び出した本人がこの御簾の向こう側で伏せってるんで、様子を見てやって欲しいんです」 「春の宮さま、が、ですか?」 「ええ。ので滅多なことは口に出せないんで儀式として若君にご足労願いました。よろしくお願いします」 言うだけ言って、御簾の端を持ち上げて中に誘う。 東宮は良い子で布団の上に伏せっている、振りだ。 ちょこんと枕元に若君が座り込んだら秋丸の出番は終了。 あとは、野となれ山となれ。完全に人払いは済ませたし、立ち入らないようにと命も下した。 「くれぐれもここで見たことはご内密に願います」 「は、い」 これからされることを口に出すとは思えないけれども、心の中で手を合わせ平身低頭しながら秋丸は障子を後ろ手で閉めた。 振り返る勇気は、何の物音もしないけれどどこにもなかったので。 さらりと衣擦れの音、そして人の気配。そこから風が生まれるかのような爽やかな。 「宮、さま?」 小さな声に続いて、また衣擦れの音。 ひやりとした、何か。 正体不明のものに触れさせると言うことに慣れていない身体が反射的に動いて掴んだのは、細い手首。 慌てて離れていこうとするそれを引き寄せれば、なんてことはない。 ひんやりとした手が自分の顔に伸ばされただけのこと。 「つか、大胆だなお前」 「元希、さん」 「! 覚えてたのか」 「は、い。え、でも、宮様が、元希、さん?」 「ああ」 淡い色彩そのままに熱を持たないのかと思って指を絡めれば徐々に溶け合っていく熱。 薄暗い部屋の中だからこそ光を放つ髪と大きな両目。 欲しいと、思った存在。 ようやく、触れることができた。術に邪魔されて、鬼に邪魔されて。 こうやって相手の熱を確かめられるような触れ方はできなかったから。 「どこか、悪く、したんです、か?」 触れている場所とは違うところから生まれる熱。 「厄介な感じにな」 よっこいせ、と白い手首を捕えたまま上半身を起こす。 「寝て、なくて」 「今から寝るぜ?」 警戒心も何も持たない蜜色の双眸を闇色の双眸で見つめたまま手際良く。 白拍子を敷布に縫い付ければ、初めて大きなそれが困惑の色をのせた。 ものの、それ以外の感情は窺えない。 「俺、抱き枕、です、か?」 「は?」 「弓、ないから、祓い、はできない、です、けど、枕、には、なれます」 気の緩みと共に緩んだ戒めから逃れるのではなくて。 若君は東宮の背中に細い両腕を伸ばして、抱きしめた。 湧き上がる清廉な空気。 汚れのない涼風が、沸き立っていた熱を冷ましていく。 「元希、さん?」 行き着く場所をなくして解放して欲しいとせがまれた上でしがみつかれる予定だった相手に。 それも上気した泣き顔で理性なんか蕩けて消えている予定だった相手に。 まるで子供にするように抱きしめられてしまうとは。 「……ちゃーんと枕になってくれよ?」 「はい」 潰さないように圧し掛からないように、きっと秋丸が見ていたならば卒倒するくらい気を遣って。 若君の両腕を解いて自らの腕の内側に閉じ込める。 迸るような熱ではなくて、ほんのりした熱。 居心地の良さに絆されてしまった。これから改めて手を出す気にはなれない。 今のところは、だが。 「俺のこの良くない感じ、多分お前にしか治せないんだ」 「俺、だけ」 「そ。だから定期的に俺の枕になりに来い」 「どれ、くらい、ですか?」 無防備に過ぎる若君に頭を抱えたくなるのは、自分だけではないだろうからと。 きっとあの乳兄弟辺りが気付いてもう少し恥じらいやら慎みを持たせてくれるだろうことを期待して。 「……っ」 「これが消えそうになったら、来い」 襟元を少しだけ開いた鎖骨の上の皮膚をきつく吸い上げて、紅を一片刻んだ。 既に舟をこぎ始めていた若君は、きょとんとするだけ。 ここにもう少し色合いが欲しい。 できれば、安堵の色ではないものが。 「約束、な」 「は、い」 枕の方が先に眠りに落ちるのはどうなんだと思いつつ、高めの体温は確かに睡魔を誘うのにうってつけ。 瞼を落としかけた東宮の耳は、何かを拾いかけたが閉ざすと同時に零れ落ちた。