It is necessary for me to play the ...


 一時期、煙草代ニコチン昼食代カロリーを削ってスタジオ代を捻出して、名目上だけはバンド仲間って奴らと底の浅い、吹いたら飛びそうなくらい軽い友情を芽生えさせたりしたり。
 それがもう俺の精神に限界がきて続けられなくなった時。
 俺が俺である全部を壊して、また一から作り直す音を出し続けて、また壊し尽くして何にも無くなって、さほど努力なんてしないでエレベーター昇っただけで大学に通って、卒論も書き終えて、一週間後ぐらいには一生懸命勉強して一流企業の就職も内定してて、これから自分の肩に日本の未来を背負って立つ、みたいな奴らと同じ日に卒業しますよって直前で、路上で歌っている奴と会った。
 否、会ったって言うのは正しくない。俺が一方的に見かけただけで何のコンタクトも取らなかったから。
 それに歌っていると言うのも。何故なら奴はヴァイオリンを弾いていたのだから。けれど、それが俺には歌っているように聴こえたのだ。


   そいつがいたのは、新宿の、都庁に向かう道の一歩手前。
 自動車の排気ガスと通行人の煙草の煙で薄汚れている空気の中。
 生まれてから今まで、一度だって聴いたことの無かった音が。
 淋しくて、でも誰かに触れてほしいって語りかけている透明な音が俺の耳の中に飛び込んできた。
 四分の三スケールの子供用のヴァイオリンで、このバリケードを突き破って何処か遠くに飛んでいく。
 自分の生き別れの半身、取り戻す為に。
 あとほんの少しでそれとシンクロしそうになってふと気付く。
 灰色に濁った空気が、それを聴いている数分間だけは浄化されていた。
 裾の擦り切れた、よれよれのトレンチコートを着ているのだか着られているのだかよく分からない奴からその音は生まれていた。
 熱狂的なファンに暗殺されて『永遠不滅のもの』としてその存在を歴史に刻み込んだ奴がいたグループの、事実上、最後のシングルで、下手すりゃ誰の機嫌取りだか知らないけど音楽の教科書にまで載っていそうな曲。それぐらい有名で、聞き飽きているはずのその曲をそいつは弾いていたはずだった。
 ギターもヴォーカルも何もかもが無くて、それも子供用のヴァイオリンだけで弾いていたはずだった。
 いつもならただ物珍しいだけで終わってしまうぐらいのごくありふれたもの。
 それなのに、いつもとは絶対に何かが、決定的に違った。
 圧倒的な存在感が、俺の五感を惹きつけた。
 帰宅ラッシュの人込みに流されそうになりながら、その場から一歩でも動いてはならないと俺の中の何かが警告をしていた。
 最後の音が空中に完全に溶けてなくなるまで、俺の足は強力磁石の力か何かで、コンクリートで固められた地面に吸い付いたままだった。
 奴がぺこりと周囲に頭を下げてヴァイオリンをケースの中にしまって何事も無かったかのように雑踏に紛れ込んでいくまで、身体の中が変だった。
 息が詰まって、上手く呼吸が出来ない。
 (酸欠の魚……違う、そうじゃなくて)
 (ドロドロに溶かした鉄、注ぎ込まれたみたいな)
 そんなことされて生きている人間なんて何処にもいない、と後で自分で思ったけど、そんな風にしか表現の仕様が無かった。


 人外魔境の生物に遭遇した、と言うか見かけた、と言うべきか。
 『運命の出会いだよ。出会うべくして出会ったんだよ』
 そんな科白がぴったりと当て嵌まる。もう絶対に会えないし、会いたくないと思った。
 でも、本当に存在するのなら神様って奴は例に漏れず残酷で。
 俺の身体の中を完膚なきまでに破壊し尽くしていった怪物に再び会うまで、一週間とかからなかったのだった。







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