What do you want? 今でも青春のポップ・ミュージックとかって番組をやれば上位は確実な曲、ヴァイオリンで歌っていたのと同じ引力持った声が、逃げ出す前に俺の耳に飛び込んでくる。 「あれ? 三輪君なんでこんなところにいるの? 音楽活動本格的にやるんじゃなかったっけ?」 尚尋が身体を乗り出して奴に話しかける。 「うん、そうなんだけどね。まだ全然足りないんだ。俺がやりたいものと事務所の望んでるものとの方向が百八十度、正反対っていうかほんっとうに全然違うものになっちゃってるんだ。あの人たちがやりたいのは売れるものであって、俺がやりたいのは売れるのなんて当然で、そんなの前提にも何にもならなくて、当たり前にもう成り立ってて、その上俺一人じゃ絶対に出来ないことなんだ……」 一気に言い終えると奴は酷く思いつめた表情を浮かべて、ふと、俺を見た。 そして自分の左腕のシーマスターのデイズを睨み付けてから、もう一度俺を見る。 俺がここにいるのが、と言うよりもなんでこの時間に尚尋が俺とこの場所にいるんだって顔をして。 「ねぇ白井君、今日って確か『MIND−SIGHT』のファーストアルバムのレコーディング初日じゃなかったっけ? なんでこんな時間に君がここにいるの? 渋谷のビサイドスタジオでやってるはずじゃなかった?」 音楽業界に精通しているようにも見えないこいつが、どっかにコネ持ってないと掴めない情報を持っている。 ファンクラブに入っていても何処のスタジオでやっているかなんて知らない。 (待て、尚尋は奴のことを何て呼んだ) 俺の隣にいつの間にか座っている奇妙な奴を思い出そうとして、モツの煮込みから出ている湯気が乏しくなっているうちに、尚尋と奴のあんまり噛み合ってない会話が、わざわざ俺を挟んで繰り広げられていく。 「ああ、辞めてきたの。今日付けで」 えらくさっぱり言い放つ尚尋の目が。 さっきまで澱んでいて、鮮度がガタ落ちした魚みたいのが急に生き返った。 足りなかった酸素を補われた水槽の中の魚みたいに、求めるものを得られる予感で胸をいっぱいにしている子供みたいに。 「あ、じゃあ俺とバンドやらない? 俺ね、ずっと白井君のドラムを待ってたんだ」 失くしていた宝物、見つけ出して喜んでいる無邪気な子供みたいな、そんな顔をして。 「俺、楽器は一応一通りできるんだけど、それって勿論雅楽用の楽器とか、そういうのはあんまり含まないでなんだけど。一人で多重録音したり、コンピューターで打ち込みとかしたら、俺の曲、どれを聴いても何処を聴いても独りで寂しく踊ってる操り人形にしかならないんだ。けど事務所の方はそれでいいよって言うんだ。おかしくない? 俺が一人で寂しい思いをして作った音楽を聴いて誰が感動できるんだ、なんていうのは全然考えてないんだよ。俺はそんなのは嫌だって言ってるんだ。俺の名前だけで売れるのなんて分かりきってるけど、それじゃ嫌なんだ」 不意に物凄く遠い目をして、それから尚尋を真っ直ぐ見つめて奴は続けた。 「だから、白井君が一人で自分のためだけにドラムを叩いてるんなら、俺のために叩いてくれない? 俺ね、初めて君の音を聴いた時に涙が出たんだ。大好きになったんだ。俺が出す音じゃ意味が無いんだ。俺の音じゃ駄目なんだ。君の音が……君とやりたいんだ、バンド」 まるで熱に浮かされて愛の告白みたいに喋っているこいつは、全然そんな自覚は無いだろうし、これ、黙って聴いている尚尋も自覚は無いだろうけど。 二人の空気が混ざり合って心地よい音楽を奏で始めていることに、俺だけが気付いた。 俺だから気付けた。 『心で求め合ってるから心の音色が重なるんだ』 教会の中で起こる美しい反響を、美しい声が奏でるように。 その声に美しい心の持ち主が涙するように。 ……穢れた、嘘の音が混ざっていないように。 「一番最初に、俺の音を愛してくれたのがここの真海と、高校の時の友達二人なんだ」 大切な宝物、二人だけの秘密をそっと明かすような声で尚尋が囁く。 「知ってるよ。確か……銭村君だよね。昔、ライブハウスで見かけて、最近は全然見てなかったんだけど。まぁ、俺が大学に通ってたからなんだけど……」 それでねぇ、と奴が続けようとするのを遮って俺は席を立った。 「尚尋誘うなら俺に断りなんて入れる必要ないだろ? 勝手に誘ってくれて全然構わない。それに俺は……もうギターなんて弾いてないから」 半分は嘘だった。俺がギターを弾かなくなっているはずが無かった。 あいつを離すなんて真似、俺に出来るはずも無い。 俺はもう、離れられないから。 この地球の、日本なんて島国の小さなトウキョウという大都市から少し離れた所で、ギターと食い物だけ在ればそれしか要らない人間が。 何のための嘘なんだか自分でもよく分からなかった。咄嗟に口をついて出ただけかもしれなかった。それならすぐに訂正が効くけど。 でも、今この手を取ることが凄く躊躇われた。 「嘘」 短く呟いて、それきり奴は黙った。 こいつの言うことは絶対に正しい。けど、今の俺にはその発言を認める権利を持つ資格すら持ち得なかった。 大切で、絶対に手放せないものを手放したと。 俺自身が。 「嘘じゃない。尚尋、金ここに置いとくから。また、な」 大きく目を見開いて、傷ついた顔をしていた。 尚尋が俺のことをただ真っ直ぐに見ている。俺の顔に何かが浮かんだらすぐ掴もうとするように。 ドウシテ? 声にならない問い掛けを、俺は無視した。 踵を返して店から出る時に、何処かで聞いたことのある曲が三流メーカーのスピーカーから流れていた。 何かの映画の葬式のシーンで流れていた曲。親友の裏切りで女が死んだ時の曲だった。 タイトルまでは思い出せなかったけど、こいつが作った曲だってことだけは直感で分かった。奴が今心の中で抱えている思いと同じ感じがしたから。 拒絶と裏切り。 (なんで、真実を話さないのか) 外に出て空を見たら月が無かった。 ……何か、大切なものが欠けている気がした。 |